山月記の李徴から考える、自意識との付き合い方

山月記の李徴から考える自意識との向き合い方人生

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山月記の李徴から考える、自意識との付き合い方

最近、中島敦の『山月記』を読み直す機会があり、この記事を書くことにしました。

私が最も印象に残っているのは、以下のシーン。

李徴が袁傪に自分が虎になった背景について思い当たることを話しませんでした。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

上達したいという気持ちを持ちながらも人から学ぼうとしませんでした。

かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。

だからといって低レベルで甘んじるのも嫌でした。

共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。

では、なぜそうなったのでしょうか。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

自分の才能のなさを露呈することを恐れるあまり練習しませんでした。

また、自分に才能があるはずだと思ったために低レベルな付き合いもできませんでした。

そんな感じです。

ここまででも結構耳の痛い話です。

私にも思い当たるところがあります。

自意識が強いと認知が歪むというか。

そして極め付けはこれ。

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

不安から逃げて、必要な努力をしませんでした。

己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

自意識の強さゆえに、才能が発揮できなかった。

虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。

気づくのが遅かったんですね。

私も、自意識過剰で失敗することはよくあります。

それでも、小中学校の頃と比べるとだいぶ減りました。

李徴も気づくのが遅かったとはいえ、自意識によって自意識過剰に気づいたわけです。

その点では、李徴も少しずつ自意識と向き合うことができるようになったのでしょう。

人は若い時には経験や実績が不足していて自意識過剰になりがちだと言われます。

そして、いろいろなことに挑戦するなかで物事を成し遂げる大変さを知り謙虚になります。

どんな世界でも上には上がいると知ったとき謙虚になるんですね。

だから、若いときに自意識過剰なのは悪いことばかりではないと思います。

ただ、人としてのバランスは重要で、自分を客観視する必要があります。

若いときの李徴は自分が客観視できていないタイプだったのかもしれません。

もし自意識過剰な時間を過ごすなら、できるだけ大勢の目に触れないところで自意識と向き合うのがいいと思います。

詩歌の集まりくらいならいいですが、今の時代自分の恥ずかしい姿がSNSで全世界に発信できてしまうので。

いかにして自意識や承認欲求と向き合うかは今後も人々の大きな課題になると思います。

特に、自己愛性パーソナリティーのような傾向のある人は要注意です。

自意識との向き合い方について、たらればさんは本を読むことをおすすめされていました。

編集者たらればのコラム・あの高円寺のユニットバスで何もかも欲しがっていた by 編集者・たられば
編集者・たらればのコラム・原作:あの高円寺のユニットバスで何もかも欲しがっていた。編集者(犬)。コミチは無料のWEBマンガが読み放題。

文字を読むのが好きな人は本を読む。

本を読んでいるうちは世界にむけた発信ができないので恥ずかしい姿を晒すリスクがないと。

同様に映画を観たり料理するのもいいんだそうです。

私も、発信する前に自分を省みようと思います。

そういえば、ブロガー山月記という文章がありましたね。

これも面白かったです。

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