身も蓋もない話をしていく勇気

身も蓋もない話をする勇気0人生

こんにちは。Yです。

身も蓋もない話をしていく勇気

最近「身も蓋もない話をしていく勇気」って大事だなと思います。

普通に生活していて、「身も蓋もない話」を聞くことってあるんですね。

例えば、「朝ごはんを食べる子どもの学力が高いのは、家庭環境がいい子どもほど学力が高い可能性を示している」とか。

これはあくまで例ですから、実際に朝ごはんと学力に関係があるかどうかは知りません。

ただ、「朝ごはんを食べたら学力が上がる」と思っていた人がいたら、これを聞いてショックを受けるかもしれませんね。

世の中にはきっと、そういう「不都合な真実」とまではいかなくても、「それを言ったらおしまいでしょ」というような身も蓋もない話が多くあるのでしょう。

特に、ツイッターの一部界隈で話題になるような学歴と経済格差の話なんかは身も蓋もない話は多いかもしれません。

例えばこれもそうでしょう。↓

他にも、「親が高学歴なら子どもも高学歴になりやすい傾向がある。」とか。

もちろん例外はあるけれど、統計的には全体の傾向がそうなっているのではないか。

では、親が高学歴じゃなくて田舎で生まれ育って学習環境も整っていなかった人は努力しても意味がないのかといったら、どうでしょうか。

私は、意味がないとは思いません。

たしかに統計的な考え方では学力は遺伝や環境の影響が大きいことが予想されますが、努力の要素もゼロではないと思います。

もちろん「努力できるできること自体が一つの才能」という考え方もありますから難しいですが。

努力できることすら才能だったら、それこそ運命にしたがって生きていけばいいでしょう。

そうしたら塾や予備校に通う意味も限定的になってしまいますね。

「努力できること自体が一つの才能」という考え方もわかりますが、それを言ってしまったら塾や予備校が社会に存在する意義ってなんだろう?とは思います。

そもそも文部科学省や自体体が公教育をやっていて、塾や予備校などの商業教育は補助的な立ち位置ですから利益を追求していればいいわけではありますが。

私が思うに「もともと勉強ができる生徒がさらにできるようになる」こともいいことですが、塾や予備校の経営理念がそれだけを目指しているとは考えられません。

大衆向けの塾や予備校は「できない生徒ができるようになる」ことを一つの目標にしていて、「もともと勉強ができる生徒がさらにできるようになる」のはどちらかというと浮きこぼれを救うための塾だと思います。

言ってしまえば、自学自習で国立医学部に行けるような人であれば塾や予備校はあまり必要ないですからね。

それで、話を戻すと、「身も蓋もない話をしていく勇気」って大事だと思うんです。

例えば教育なら、生徒が夢を見て「偏差値30から東大合格」を目指すのは悪くないことです。

ただ、何の計画もなく受験して不合格になってしまっては可哀想ですから、周りの人から本人に向かって理想と現実のギャップを見るようにフィードバックすると思います。

このフィードバックのときに、「あなたは有名な中高一貫校の出身でない時点で東大受験には有利ではない」とか言われたらどうかって話です。

これから頑張ろうっていうときにそんな話されたらムカつくかもしれません。

しかし、こういう耳の痛い話をしてくれる人がいるかどうかで結果も変わってくるのだと思います。

卓越するためには人並みの努力ではダメで、ライバルが遊んでいるときも自分はやるという姿勢が重要です。

勉強で質が大事になるまでには、ある程度多くの量をやっていることが前提ですし。

そういった意味で、指導者が「身も蓋もない話をしていく勇気」をもつことは人にいい影響があるかもしれません。

ただ残酷な事実を提示するだけだと暴力的になってしまいますが、その先に明確な目的があって相手に対する愛があればいいと思うのです。

コメント