最近の大学受験事情と人間の心理

受験情報

こんにちは。Yです。

最近の大学受験事情について思うことを書こうと思います。

最近の大学受験事情と人間の心理

まずは、ドラゴン桜2の漫画とドラマについて

『ドラゴン桜2』について考える

ドラゴン桜といえば、私が幼い頃に漫画やドラマが身近にありました。

それが、『ドラゴン桜2』という新しい漫画としてもう一度出版されました。

『ドラゴン桜』と『ドラゴン桜2』では、ストーリーや登場人物は重なるところもありますが、新しい要素もありました。

この漫画はドラマ化されて、私も最近まで見ていました。

『ドラゴン桜2』はテレビドラマになったこともあり、TwitterやYouTubeの受験界隈ではけっこう話題になっていた気がします。

『ドラゴン桜2』について、受験界隈だと勉強法に興味を持っている人が多く感じましたが、私が注目したのはそこではありません。

自分が教育に関わる中で、教育者・指導者としてどうあるべきかということを常日頃考えており、その点で桜木の姿勢から学ぶものがあったのです。

『ドラゴン桜2』に登場する教師たちは、傷つきやすい現代の子どもたちに寄り添うような姿勢の人が多かったと思うのですが、桜木はちょっと違いました。

というのは、他の教師は過保護だったり放任だったりしたのです。

生徒に寄り添う姿勢を見せるのも、本当は生徒のことを深く考えてはいないからこそ表面的に優しくしてしまうのではないかと。

私のこの感想は『愛するということ』を読んだ影響でしょうか。

表面的な優しさではなく、深い愛を持って人と関わること。

桜木はそれを体現していました。

『ドラゴン桜2』で作者が伝えたかったことというのは、勉強法だけではないはずです。

というか、『ドラゴン桜2』は『ドラゴン桜』と比べると新規性のある勉強法は少なく感じました。

今はインターネットで受験勉強のやり方が調べられる時代です。

勉強のやり方それ自体の効用は今でも大きいですが、それ以前に「目標を持って努力」できるかどうかが問題になっています。

インターネットの功績と、社会

インターネットは形の上で機会平等を実現し、実際に多くの人の人生を変えてきました。

私も、ネットで受験勉強のやり方を調べていた世代です。

しかし、誰もがスマホを持ってネットに接続できるようになっても、ネットをどう使うかは個人に委ねられています。

そもそも、勉強をする中で「分からないことを調べる」習慣がある人とそうでない人がいます。

子どもは親の背中を見て育ちますから、親がやっていない習慣は子どもも身につけなかったりします。

例えば、分からない単語があったら辞書で調べるとか、そんな単純なことが複利で大きな差になってきます。

いま私のブログを読んでいて、分からない言葉があったとしても、その意味を推測したり調べたりすることなく飛ばして読んでしまう人がいるということです。

分からない単語を調べる習慣があるかどうかは、国語の教科書を音読したときによく現れます。

もちろん国語の教科書には知らない言葉が載っていても当然ですが、知らない言葉が多すぎると文の意味が分からなくなります。

よく英語で言われるのは、「一文中に分からない単語が1つあっても意味を推測して読めるが、分からない単語が2つ、3つとあると推測するのも難しくなる」ということです。

これは、当たり前の話だと思われるかもしれませんが、教育現場ではこういったことが問題になります。

例えば、生徒が「長文問題の読み方を教えてほしい」というので、まずは解いてもらって様子を見ます。

すると、長文問題の読解法が分からないというより、そもそも単語を知らないわけです。

単語が分からなかったら文の意味が分からず、文の意味が分からなかったら文章の意味は分かりません。

だとすれば、「長文問題の読み方を教えてほしい」という前に、単語を覚えた方がいいかもしれません。

もちろん、「長文問題の読み方を教えてほしい」と素直に言えるだけで素晴らしいことですから、そうやってコミュニケーションがとれていることはいいのですが。

自己肯定感と主体性

生徒の「分からないことを調べる」習慣の有無はなぜ分かれたのでしょうか。

結局のところ、「分からない」ことを問題だと思っていなかったり、「分かること」を諦めて放棄してしまっている生徒がいるように思います。

これは、かなり家庭環境の影響があるでしょう。

自己肯定感が高ければ、生徒も前向きに学習に取り組む可能性が高いです。

自己肯定感というのは、親との関係で身につけるのが理想であり、それは家庭環境の問題になります。

幼少期に、親から愛されて育ったかどうかが学力にも関係してくるのです。

私が以前ほど受験勉強について関心を持たなくなったのも、結局私が勉強法を発信して助けになる人の数が限られていると気づいたからでしょう。

元々家庭環境がある程度恵まれていて、自己肯定感が高く、分からないことを自分で調べる習慣がある人しかこのサイトにたどり着くことはありません。

中には、私の記事をお知り合いに紹介していただけることもありますが、それは一部です。

私のサイトの訪問者様は大多数がネット検索由来でして、検索能力がなければここにたどり着けないことになっています。

そういう文脈において、『ドラゴン桜2』がテレビで放映されたことに一定の意味はあったと思います。

もちろんドラマはエンタメであって現実の社会とは違いますが、エンタメであっても教育への影響力が一定程度あるからです。

『ドラゴン桜2』の勉強法が正しいかどうかとか、それが実際に実行できるかどうかは別として、今の時代にも「夢や目標を持つこと」の大切さが理解されているとしたら嬉しいですね。

何しろ、現代の日本社会は「夢や希望を持つこと」が大変な時代なのです。

経済が右肩上がりの成長をする時代ではなく、みんなが学歴や職歴で上昇志向になれるような世の中ではありません。

今でも会社で出世してマイホームを買って、みたいな文化は続いていますが、それを維持できる人の数は減っています。

非正規雇用は増えているし、正社員でも大変な時代なのです。

実は、『ドラゴン桜2』を読んで、

「今更東大を目指すなんて時代遅れだ」

「なんで海外の名門大学を目指さないんだ」

という疑問は私にも当然ありました。

「日本の大学が世界ランキングでの順位を下げている時代に、なぜアジアの端っこの島国で小さくまとまっているんだ」

というのは当然の疑問です。

しかし、そういった考えを持てること自体が一般的ではないのです。

(もちろん、みんなが海外に行きたがるわけではなくて、日本から出たくない人もたくさんいます。

それはいいのです。)

しかし、もし海外留学という選択肢が現実に実現可能なものとしてあったら海外に行きたかったという人もいるでしょう。

例えば、私がそうでした。

それなら、日本の大学におさまっていないで海外に行ってしまってもいいのです。

ところが、テレビドラマのようなマスメディアで放映される番組では、「東大」が現実的に目指せる範囲になっています。

私のような人間は「もしハーバード大学を目指す話だったら」などと考えてしまいますが、視聴者はそんなものは求めていないのでしょう。

実際問題、ハーバード大学にも途上国から奨学金を獲得して進学する人はいますが、そういった人たちの努力は想像を遥かに超えており、ドラゴン桜の何倍も大変なものです。

高校生活の最後の一年ちょっとで東大に合格するとか、そんな世界ではありません。

『半沢直樹』と『ドラゴン桜2』

以前、『ドラゴン桜2』を放送したTBSはドラマ『半沢直樹』もやっていました。

私はこのドラマが好きです。

ただ、これは慶應閥、東大閥のエリートが銀行で競争する話です。

だから、一般の視聴者が共感するようなストーリーではありません。

受験でも就職でも勝ち続けたエリートが、職場で苦労するという、かなり限られたコミュニティの中の話です。

それでも、脚本家の福澤さん(福澤諭吉の子孫)が「医療ドラマとか刑事ドラマだけでなく、家庭のお父さんの活躍が見られるようなドラマを作りたい」ということで作られたのがドラマ『半沢直樹』でした。

ここに、マスメディアの構造というか何かが見えてきます。

メディアは広告ビジネスですし視聴率はとりたいところですが、医療ドラマや刑事ドラマばかりやっていたら面白くないということ。

その中で、現実的に可能な選択肢としてドラマ『半沢直樹』ができました。

直樹の奥さんの、花の活躍もしっかり描かれていましたね。

女性が仕事を通じた自己実現をすることと、家庭を守ることの葛藤みたいな描写もちゃんとあった。

『半沢直樹』の、銀行の内部事情みたいな難しい話をうまくまとめて、演技力とインパクトのある俳優を起用して…というところは本当にすごいと思います。

ただ、学歴エリートの話を一般の視聴者が面白がっている構図がちょっとなんともいえない感じがしました。

私も、いち視聴者としてはあまりそういったことは感じなかったのですが、あとでネットでそういった感想を見ると、たしかにそうかもしれないと思ったのです。

一方で、『ドラゴン桜2』は、そのあたりにかなり配慮していました。

というか、配慮したのが空回りして逆に変な感じになっていたかもしれません。

多様な視聴者を想定すると、結局話の展開にまとまりがなくなってしまう。

現代日本のように人々の好みが多様化すると、もはや、みんなが共有・共感できるコンテンツが減ってきているのでしょう。

それは、瀧本さんもおっしゃっていました。

学園ものぐらいしか、みんなが共有・共感できるコンテンツがないんだと。

じゃあ、どうしたらいいのかということですが、社会のみんなが一つのコンテンツを共有する必要はないと思います。

YouTubeを見れば分かるように、コンテンツは一人一人に最適化されていく。

そうすると、日本も文化の面ではアメリカみたいな多文化の方向にいくのかもしれません。

実際、アメリカは多文化が共生しているというより分断されているような気もします。

「人と人は分かり合えないけど、だからこそ分かろうと努力する」その姿勢が大事なんだ、みたいな。

日本もそういう方向にいくのかもしれません。

なぜ受験勉強法にこだわってきたのか

なぜ私がこれまで受験勉強にこだわってきたかというと、それは受験が人生を逆転できるチャンスの一つだからです。

しかし、YouTubeの動画を見れば分かるように、現役で難関大学に合格するのは難しい。

実際には遺伝や家庭環境の影響があり、みんながドラゴン桜みたいに東大に現役で行けるわけではないのです。

私がこれまで扱ってきた「体験格差」みたいな話も、今の文脈ではちょっと古いのかもしれません。

地方と都市の格差は情報格差というより体験格差である
こんにちは。Yです。私は地方の高校から関東の大学に進学しました。生活するなかで、ときどき格差について考えることがあり今回の記事を書いてみました。この記事を書いたきっかけは以下のブログです。2015年05月12日SEMマス...

もちろん、都会と田舎の差は依然としてありますが、「都会が正義で田舎が悪」みたいな価値観を前提にしていいのかという話になってきました。

結局、都会には都会の大変さがあり、都会も田舎も一長一短です。

日本にはまだ地方の人口が多く、衆議院の選挙区を見ても地方から有名な政治家が出ています。

日本は今でも質的な意味でムラ社会であり、田舎はなくならないでしょう。

だとしたら、都会の子どもは教育環境が良くて田舎の子どもは教育環境が悪いのでしょうか。

今の私は、そうは思いません。

私が中学・高校時代に地元で過ごして退屈したのは本当ですが、だからといって得たものがなかったわけではありません。

今振り返ると、自然の豊かさや人々の温かさに触れられてよかったと思います。

教育と資本主義と哲学

ここまでの話をまとめると、学歴エリートが「教育格差」と叫んで他の人々を無意識に見下して

いる構図が明らかになるにつれ、社会の分断が可視化されてきたということでしょうか。

『半沢直樹』のような、「慶應の体育会の人間が、大学時代の人脈を使って事件を解決する」というストーリーも、今後は受け入れられるかどうか分かりません。

メディアが理想的な生き方を提示し、視聴者がそれについていこうとするのは時代の常です。

しかし、進化心理学によってその構造が明らかになってきた今、一人一人の人間はそれで幸福なのかという問題が表出したのかもしれません。

メディアが提示する理想像はゆるい宗教のようなものであり、今で言えばSDGsやESG投資がそうでしょう。

環境保護とか、マナー講師とかもそうかもしれません。

これは、人間も生物の一種であると考えると、納得がいきます。

生物の群れの中で、ヒエラルキー上位の個体が情報を発信すると、群れの他の個体も真似をし始める。

なぜなら、上位の個体の真似をすることで自分の生存・繁殖の成功率が上がるかもしれないからです。

昔のボスとか長老と呼ばれるような人がインフルエンサーに変わっただけで、社会の仕組みは同じようなものでしょう。

人は男と女という二つの性別がある限り、激しい競争に身を投じ、より大きな成功(資源の獲得)を求めていきます。

その中でインフルエンサーが人を煽り、沼に沈めていく。

私はインフルエンサーではありませんが、やろうとしていることは彼らに近いでしょう。

「こういう勉強法を採用したら難関大学に受かるよ」という情報を発信すること自体はいいのですが、自分がなぜそれをやっているかといえば、自分の影響力を強くしたいからです。

こうして資本主義は続き、教育がハードになっていく。

高学歴エリートは田舎の中堅校の教員を馬鹿にすることがありますが、そういう人たちが日本の教育を守り育てていることに気付いてもいいのではないでしょうか。

私のような、学校の教育方針に反抗して独学で大学に受かった人間も、受験という一点だけを見れば成功かもしれません。

しかし、そうやって私に残ったのはひねくれた性格でした。

他者を見下し、競争原理の中でもがいているうちは楽しく生きることはできません。

だからといって「競争から降りろ」というとまた無責任なインフルエンサーになってしまいますが。

できるだけ競争から降りずに資本主義の中で戦い、そのうえで人を愛する。

私はそうやって生きていこうと思います。

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