悟った人は「悟りとは何か」を語らない

人生

Yです。

今回のテーマは悟りについて。

「急に宗教っぽくなったな」と思われるかもしれませんが、特定の宗教を勧める話ではありません。

ここで話したい悟りというのは、仏教的な意味ではなくてもっと一般的な意味での悟りです。

では、まず今回の記事タイトルの解説をします。

悟った人は「悟りとは何か」を語らない

これはどういう意味なのか。

ここでは恋愛を例に考えてみましょう。

悟りについて、恋愛を例に考える

世の中には、モテる人とモテない人がいます。

モテる人の一部は元から(生まれつき)モテています。

一方、元々モテなかったけれど努力してモテるようになった人もいます。

元々モテなかったけれど努力してモテるようになった人がやりがちなのが、

「モテる方法」を語ることです。

「モテる方法」を語ると、モテない人たちが集まってきて教えを受けようとします。

しかし、「モテる方法」を語る人たちも時々以下の事実に気付きます。

・元々モテる人は「モテる方法」をあまり語らない。

・なぜなら、彼らにとってモテることは当たり前であり、わざわざ語る必要がないから。

この事実に気づいた人は、「モテる方法」を語ることをやめてしまいます。

これが、モテる・モテないについて学んでいる人たちの悟りです。

なぜこの現象が起きるのかというと、あとから努力してモテるようになった人は

「モテる方法」を語ることで、元々モテなかったことがバレてしまうからではないでしょうか。

元々モテていた人のほうが異性から見てより魅力的であれば、あとからモテるようになった人も元々モテていたかのように擬態するのが得策です。

そのことを生物の本性として無意識的に理解すると、「モテる方法」を語ることをやめるのかもしれません。

実際、私は何かを悟ったことはないのでよくわかりませんが、悟りというのは個人の社会的地位や環境の変化によって、ある心のプログラムが発動することなのかもしれません。

この辺りをもう少し科学的根拠をもって、生物学の方面から研究できるとおもしろそうですね。

悟った人は「悟りとは何か」を語らない

今度は恋愛の例から離れて、一般的に考えてみましょう。

悟った人は、次に何をするでしょうか?

まず「悟り」は、周囲の人からは何らかの変化として受け止められます。

ここで、悟ったことを周囲の人に説明するかどうかという問題が出てきます。

私の直感だと、古代のインドや中国では悟りについて人に語らなかったのではないかと思います。

現代の仏教は長い年月のうちに複雑化してブッダの教えから離れている部分もありそうなので参考にしませんが、ブッダ本人が生きていた当時の考えでは、悟りを人に強制することはなかったはずです。

ブッダは悟りをひらいていて、弟子たちは教えを乞うために勝手に集まってきた。

ところがブッダは「悟りとは何か」について直接的な教え方はしない。

弟子たちがそれぞれのタイミングで悟るのを見守っている。

こんな感じだったのではないかと思います。

さて、では、なぜ悟った人は「悟りとは何か」を語らないのでしょうか。

これについては、いくつかの理由があります。

一つ目の理由は、そもそも悟った人は「悟りとは何か」について語ること自体が野暮だと思っているからです。

「悟る」ということはすべてを了解することであり、物事の道理をわきまえることです。

これは、ソクラテスの「無知の知」にも通じるところがあると思います。

人間が理解できることには限界があり、その中で少しでも多く理解できるように努力することが人間の生き方だと私は考えています。

「私は悟ったぞ!」と叫んで偉そうに悟りについて語るというのは逆効果でしょう。

なぜなら、悟りとは簡単に言葉で説明できるようなものではなく、心身で経験するものだからです。

悟りが身体性をもつ以上、言葉だけでわかった気になるのは悟りではないということです。

2つ目の理由は、周りから変な人だと思われることを避けられるからです。

「悟りとは何か」を語るのは、悟りに興味がない人には意味がないことです。

人は自分が理解できないものに対して警戒する性質があるので、下手に悟りを語るのは危険です。

では、なぜ宗教家の悟りは教えとして今でも残っているのでしょうか?

それは、本来大勢の人には伝わるはずのない「悟り」が、弟子たちによって教えが変形したことにより伝わったからです。

悟りとは本来、必要以上に他者に介入しないという姿勢を含んでいます。

物事は行雲流水のごとく、止めることのできない流れだからです。

しかし、「悟りは有益だから多くの人に広めよう」という人が出てくると、悟りを得ないまま宗教を盲信する人が発生するのです。

本来、悟りを得るためには厳しい修行も必要なく、かといって悟りは簡単に得られるものではないはずです。

しかし、悟りについて誤解した人たちは必要以上に厳しい修行をしたり、反対に簡単な作業で救済が得られると信じていたりします。

また、自分の力ではどうしようもない自然の力に対して諦めつつ向き合うのが静的な悟りであり、自然の力に対抗できないと知りつつも対抗しようとするのが動的な悟りなのでしょう。

静的な悟りは、関係流動性が低い地域では他者に思想の変化を強要しないという点で適応的です。

動的な悟りは、関係流動性が高い地域では他者の思想を変えられるという点で適応的です。

それぞれ、静的な悟りは東洋、動的な悟りは西洋で見られるように思います。

しかし、古代ギリシャのソクラテスも「無知の知」を体得する過程で人々の恨みを買って死刑になってしまいました。

やはり、悟りは人に言わないで自分だけのものにしておくほうがよさそうです。

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