進化心理学を学んでから人と話が合わなくなった

進化心理学

進化心理学を学んでから人と話が合わなくなりました。

辛いです。

進化心理学を本格的に学び始めたのがここ一年くらいで、最近特に辛いです。

 

なぜ話が合わないのでしょうか?

それは、話の前提条件が違うからです。

進化心理学的アプローチで考える人と、そうでない人とは話の前提条件が違うことが多いです。

そうすると、話が合いにくくなります。

ここでいう話の前提条件とは、人間も生物であるということです。

 

私は、人間も生物なのだから生物の本性が心理や行動に影響すると思っています。

しかし、そのように考えない人もいるのです。

 

というか、進化心理学的な思考をしない人の方が多数派だと思います。

寂しいですね。

人間の心理と行動には、遺伝環境の両方が影響します。

そのうち、環境の影響が非常に大きいと考える人たちがいるのです。

もちろん環境の影響はあるのですが、環境が全てであるかのように語られると困ってしまいます。

 

人間には「理性」があるという話もよくされます。

「理性」はどこから来たんだろう、と思います。

 

「理性」が存在するのかどうか。

仮に存在するとして、その起源は何なのか。

説明してほしいものです。

 

それから、進化心理学の話をすると、陰謀論にハマった人みたいに思われるのが嫌です。

進化心理学徒は孤独なのでしょうか。

映画の『マトリックス』も、進化心理学の影響を受けているという話を思い出しました。

あの映画が公開されたのがたしか1999年で、そう考えると時代を先取りしていてすごいですね。

 

実際、孤独の問題に関しては、最近はツイッターで進化心理学徒同士の交流があります。

今のところはそれが救いですね。

もしYouTubeで情報発信をする人がいたら、多少は孤独感が解消されるでしょうか?

私も進化心理学YouTuberになりたいのですが、動画を作る時間がなく…

 

先日、YouTubeに動画を1本公開しました。

やまちゃん
進化心理学を学んでいます。

 

そして直近ではもう、私の価値観はインド哲学とか原始仏教みたいになってきましたね。

進化心理学的な考え方と、インド哲学は似ているような気がします。

私はインド哲学や原始仏教に詳しくないので、勝手に語ることはできませんが。

 

例えば、人間も自然の一部なら、人間社会の色んな出来事も「自然だ」ということになります。

そうすると、世の中は均衡(バランス)で成り立っているのだと思います。

生物同士の生態系があるように、ホモ・サピエンスという種の中にも生態系的なものがあると。

 

ここで、例として社会問題について考えてみましょう。

今の世の中の均衡で問題があると思って、問題解決を図るとまた違う問題が出てきます。

問題解決はマッチポンプということです。

つまり、今あるバランスを崩すとまた別のバランスになる。

 

 

政治などの議論はどうでしょうか。

自分の意見が正しいと思っている場合、他者を説得することはできるのでしょうか。

人と人は分かり合えるのでしょうか。

 

そもそも人はポジショントークをしがちな生き物だと思うのです。

政治でも経済でも、社会でも、みんなポジショントークをしがち。

それは悪いことではありません。

人間がそういう生き物だとしたら。

 

そうすると、数万年の単位でみたときに、私たち一人一人の心理や行動にどれだけの意味があるのでしょうか。

意味がないとは言いませんが、意味があるとしたら愛とか芸術とか、そういうことになるのかもしれません。

ローマ帝国が滅んでも、ローマ帝国の美術品と哲学が後世まで残ったように。

 

また、遺伝子について考えてみましょう。

数万年後には自分の直系の子孫が残っていないかもしれない。

悲しいことです。

悲しいというか、「哀しい」でしょうか。

 

この、「哀しい」というのは、感覚としては無常観に近い気がします。

日本の古典で言うならば、『平家物語』や鴨長明の『方丈記』みたいな価値観です。

『平家物語』と『方丈記』の冒頭を見てみましょう。

 

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

『平家物語』冒頭

「猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

って自然淘汰のことなんじゃないか、とか勝手に思ってしまいました。

人も生き物である以上は、いつか死ぬということです。

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

鴨長明『方丈記』冒頭

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」

人間はずっと生きてきたけれど、社会を構成するメンバーは変わっています。

一人一人のメンバーに着目すると、儚いものです。

 

話を戻すと、私の中でインド哲学や原始仏教の話のもとになった議論はなんでしょうか。

私が思うに、それは「人間に自由意志はあるのか」ということです。

自由意志的な何かが仮にあったとしても、それは脳や神経、内臓が作り出した幻想ではないのか。

 

こういうことを考え始めると、急に不安になります。

「存在論的恐怖」という言葉を思い出してしまいました。

 

一応言っておくと、進化心理学以外の考え方に意味がないわけではありません。

進化心理学的アプローチは、特定の科学者のコミュニティにおいて最も有力なアプローチとされているのが実態だと思うので。

今は社会の多数派ではないと思います。

 

それで、政治とか経済とか、生活のうえで大事なことは進化心理学関係なしにしっかり議論すればいいと思います。

しかし、その前提が変わってくると、話は合わなくなりますよね。

特に、より「善い」社会を実現しようとしている人と話が合わない気がします。

 

「善い」社会ってなんでしょうか?

その人が生存・繁殖上の利益を多く得られる社会でしょうか。

自己欺瞞がはたらいていたら、そういう隠れた動機もあるかもしれません。

 

では、より「善い」生き方ってどういうことなんでしょうか。

そもそも、「善い」生き方を考えるのはなぜでしょうか。

人間は「善い」生き方などを考えるように進化したのでしょうか。

 

結局、古代ギリシャの哲学や古代インドの哲学、古代中国の哲学しかこれらの疑問に回答できないのではないかと思ってしまいます。

進化心理学が普及する以前の哲学や政治学、経済学というのはなんだったんでしょうか。

標準社会科学モデルの影響は大きいですよね…

いつか、標準社会科学モデルのお葬式をする日が来るのでしょうか。

 

以上、進化心理学を学んでから人と話が合わなくなったという話でした。

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