諸行無常の、その先へ

人生

以前、進化心理学を学んでから人と話が合わなくなったという記事を書きました。

この記事で、仏教の「諸行無常」を紹介しました。

私はしばらくの間、「何事も諸行無常だから人生には意味がないのではないか」と考えていました。

もちろん「人生に意味がない」などとは考えたくないので、それを否定しようとします。

しかし、否定しようとしても諸行無常を超える考えが出てこなかったのです。

気づいたこと

今日、風呂からあがるときに以下のことに気づきました。

人間も生物である以上、人間の肉体は遺伝子の乗り物にすぎません。

私たち人間は、生物として子孫を残しDNAを複製するために生まれてきたからです。

しかし、人間には食事と睡眠と子育て以外のことをする余裕があります。

生存と繁殖から離れたこともできるのです。

このことが、諸行無常を超えていくヒントになりました。

小鳥の話

私の家の庭に、毎年冬になると小鳥がやってきます。

庭の木の実を食べに来るのです。

その中で、メジロという小鳥はいつも食事をしています。

メジロ

メジロは果糖をエネルギー源にしており、代謝の効率が悪いせいか、いつも食べていないと生きていられないのです。

一方、スズメやシジュウカラはいつも食べているわけではありません。

スズメ

スズメやシジュウカラは色々なものを食べることができます。

木の実や虫を食べられるのです。

シジュウカラ

スズメやシジュウカラの場合、餌の選択肢が多く、しかもカロリーが高いものを食べられます。

同じ量なら、糖より脂肪の方がカロリーが高いのです。

だから、スズメやシジュウカラはメジロより自由に生きられるはずです。

生存のために使う時間が少なければ、他のことができます。

もちろん、多くの時間は繁殖に使われるわけですが、それでも生存に必死なメジロよりは自由度が高いでしょう。

人間の可処分時間

そう考えると、人間は生存と繁殖以外のことをする時間的余裕があります。

なぜなら、人間は食事が速いからです。

人間は、加熱調理を発明したことで食事の時間を減らすことに成功しました。

食べ物は加熱することで栄養素を吸収しやすくなります。

栄養素を吸収する効率が高いということは、短い時間で食事を済ませられるということです。

そのため、食事と繁殖以外の時間が余ったのです。

この余剰の時間をどう使うかが、人間の幸福度に関わっているのです。

進化心理学者のロビン・ダンバーは、人間が余った時間を「毛繕い」に当てていると主張しました。

毛繕いは、サルが仲間とコミュニケーションする手段です。

ある種のサルは、毛繕いを本来必要な時間より長く行います。

つまり、毛繕い本来の目的とは別に、コミュニケーションのために行われる毛繕いがあるのです。

人間も、生存・繁殖以外の時間を「毛繕い」に使っています。

つまり、家族や友人、周りの人との関わりです。

人の幸福度に関わるのは経済的な豊かさではなく友人の多さだという話をよく聞きます。

それはきっと、以上のような理屈なのだと思います。

また医師の日野原重明先生は、いのちとは時間だとおっしゃいました。

人間にとって、生命とは可処分時間なのです。

それをどう使うかは個人に委ねられています。

人間の認知の仕組み

話を戻しましょう。

最初に、進化心理学を哲学として考えると諸行無常に行き着く人もいると書きました。

しかし、そこから先に考えを進めると、生きる意味が見えてきます。

私たちの幸福は、ドーパミンやアドレナリンといった脳内麻薬によって決まります。

また、私たちはありのままの世界を見ることはできません。

私たちが見ているのは、脳内麻薬によって歪んだ世界です。

それは、脳や神経、内臓が作り出した幻覚といってもいいでしょう。

ならば、私たちがどんな幻覚を見ようと自由なはずです。

どうせ、ありのままの世界を見ることなどできないのだから。

だとすると、自分が見たい幻覚を見た人が勝ちです。

脳の仕組みをハックするのです。

世の中は諸行無常で、勝ちも負けもないからこそ好きなことをやった人が勝ちなのです。

それが、人生に勝利するということです。

好きなことをやるとはどういう意味か

では、好きなことをやるとはどういうことか説明しましょう。

好きなことをやるというのは、好き勝手やるということではありません。

人に迷惑をかけるようなことは持続可能性が低いので駄目です。

好きなことをやるということの本当の意味は、自然体で生きるということです。

自然体で生きるとき、人間は自分ではない何かが自分を突き動かしているような感覚になります。

例えば、就職活動の面接で自分の思ったことをスラスラ言えたとき。

無駄なプライドを捨てて、自分の恥ずかしい部分と向き合い、建前を壊したとき本音が出てきます。

この感覚を、私は「道に接続した」と呼んでいます。

道とは、中国哲学で「人やものが通るべきところ。宇宙・自然の法則」という意味です。

中国の古典『老子道徳経』に書かれた「無為自然」こそが道です。

頭の中をグルグルする余計な雑念を取り払い、深呼吸をしてリラックスする。

この自然体で生きるとき、好きなことをやれるのだと思います。

道を考えて生きていくと、自分がこれまでいかに雑念に放り回されていたかがわかります。

雑念と一つずつお別れしていくと、自分が本当にやりたかったことが見えてきます。

そうなると、他人にかまっている暇はなくなります。

つまらないことで人と喧嘩することがなくなります。

自分が本当にやりたかったことが見えてきたとき、人に優しくなれます。

この境地に至ると、物事全てがこれまでとは違って見えます。

これまで自分を支えてくれた人、応援してくれた人、愛してくれた人のことが頭に思い浮かびます。

他者に対する感謝の気持ちが芽生えてきます。

ここまで来ると宗教みたいですが、本当の話です。

遺伝子の鎖の意味

私たちは遺伝子の鎖に縛られてはいますが、そこで絶望する必要はありません。

縛られているからこそ他者との関わりが発生し、喜びや悲しみといった感情や生まれるのです。

私の好きな映画『ファイト・クラブ』では以下のようなセリフがあります。

「愛しているから人を傷つけるとはよく言うが、傷つけたから愛せるとも言える。」

傷つけたということは、一緒にいたということです。

そばにいたから傷つけた。

でも、そばにいることが愛なのです。

また仏教には、人間の苦しみの一つとして「愛別離苦」があります。

愛する人と別れることの苦しみです。

そんな苦しみでさえ、私たちの先祖が残したものなのです。

誰もが、この苦しみを背負っている。

しかし、私はこの苦しみすらも私たちの肉体に刻まれている芸術品だと思います。

これが遺伝子の鎖です。

遺伝子の鎖はとても強く、そして美しい。

私たちが人と喧嘩をするのは遺伝の影響ですし、仲直りするのもまた遺伝の影響です。

私は、ただ奪い合い、傷つけ合うだけでなく、協力したり愛したりできるように進化した私たちの祖先を誇りに思います。

私たちには、その祖先の血が流れている。

そのことを意識するだけで、生き方も変わってくるはずです。

死を考えることは生を考えること

私は、知人が亡くなったのをきっかけに、こういったことを考えるようになりました。

知人の死は病気によるもので、偶然かもしれません。

しかし、私にとっては意味のある死でした。

自分が死ぬ時、誰かによい影響を与えて死ぬことができるでしょうか。

それを考えながら生きていくことが、幸福に至る道なのではないかと思います。

「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」

人のために生きることで、自分も幸せになれる。

そう思えたら、もう死んでもいいのかもしれません。

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