問題発見・問題解決に飽きた

大学生活

正直、問題発見・問題解決って学問としてどうなんだろう、思う今日この頃です。

そう思うようになった背景としては、以下の記事に書いたような事情があります。

問題発見・解決という思想

「問題発見・問題解決をしよう」って学問じゃなくて、そういう「思想」だと思います。

何か人の役に立つことに意味があるという思想。

「やることに何か意味がなきゃいけないんですか?」と思ってしまいます。

無宗教の人にとっては、生きる意味とかは重く考えるようなことじゃないと思うんですけどね。

「意味がなきゃいけない」と思うのは逆に病んでいる状態なのかもしれません。

発達障害グレーゾーンであるとか、親に愛されずに育ったとか、何かある人の発想な気がします。

例えば工学部で自動車の研究をするなら、「より安全に走れる自動車を作りたい」というのはわかります。

「交通事故で沢山の人が亡くなっているから、車を強化して事故を減らそう」という背景は理解できます。

しかし、人文社会学系の学部で同じようなことをするのはちょっと違う気がします。

人間のやる問題解決はマッチポンプだ

私は、問題解決はマッチポンプだと思っています。

何か問題を解決すると、新たな問題が出てくる。

その繰り返しです。

人間も生物である以上、各個体が競争をしています。

各個体は基本的にポジショントークしかできません。

そう考えると、誰かが考えた問題発見・問題解決は別の人にとっては意味がなかったりします。

意味がないくらいならまだマシで、ときには逆効果だったりします。

そう考えたときに、社会全体の利益になるようなことって何なの?という疑問が生じます。

この疑問を持たないで人文社会科学系の学問をやっている人は最近ネットでも叩かれてますよね。

そりゃそうだ、と思います。

何か進歩しなきゃいけない、人間は進歩するんだ、という思想は革新寄り、つまり左の思想ですよね。

私は自分自身が社会的な生き物である以上、思想が右や左に触れることはあります。

ただ、それはあくまで個人の意見であって、他者に直接語りかけたいとは思いません。

私のブログは、検索で引っかかって見てくださる方も多いですが、それ以外は見たくて見ていると思います。

嫌なら見なければいいだけですよね。

検索で引っかかったとしても、すぐにブラウザバックできますし。

結局人間の歴史って同じことを形を変えて繰り返すだけなんじゃないの?

問題発見・問題解決ってある意味暇人の発想だと思います。

「小人閑居して不善をなす。」ですよね。

問題発見・問題解決って個人の仕事としてやる分にはいいと思うんですが、それを社会の文脈で語るのはよくわからないです。

私も高校生の頃は「社会の問題を解決したい」と思っていましたが、それはある意味中二病でした。

それを大人になってもやっているのってどうなんだろう?という話でした。

ある程度の人生経験を積んだら、仏教みたいな諸行無常に気づくんじゃないでしょうか。

それか、キリスト教みたいに全ての人を愛する方向に行くか。

いずれにせよ、他者の問題を自分の問題であるかのように語って勝手に解決するなんて余計なお世話だと思います。

自分の問題を自分のために解決するのが先で、それが終わって初めて他者と健全に関われるんですよね。

見返りを求めて他者の問題解決をしていても、相手がそれを求めていない可能性もありますから。

他者の問題を解決しないといけないと思っている人は病んでいる可能性があるので、一旦落ち着いた方がいいと思います。

美味しいものを食べて、ゆっくり寝ましょう。

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